ネパールは南アジアの連邦民主共和国(2008年に王制廃止)。
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南にインド、北に中国チベット自治区を接する東西に細長い内陸国である。国土は世界最高地点エベレスト(サガルマータ)を含むヒマラヤ山脈および中央部丘陵地帯と、南部のタライ平原から成る。ヒマラヤ登山の玄関口としての役割を果たしている。
多民族・多言語国家(インド・アーリア系の民族と、チベット・ミャンマー系民族)であり、民族とカーストが複雑に関係し合っている。また、宗教もヒンドゥー教(元国教)、仏教、イスラム教、アニミズム等とその習合が混在する。
2008年5月、制憲議会が発足したが、新政権は3ヶ月にしてようやく8月31日、難航の末プラチャンダ内閣が本格的に発足した。1996年から2006年までネパール共産党毛沢東主義派と政府の間で内戦が行われ、現在停戦中。国連の停戦監視活動(UNMIN)を受けている。
経済的には後発開発途上国である。農業を主たる産業とする。ヒマラヤ観光などの観光業も盛んである。
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目次 [非表示]
1 国名
2 国民
2.1 人口関連
2.2 民族・言語・宗教
3 地理
3.1 概要
3.2 行政区画
3.3 ネパールの主な都市
3.4 マデシ問題
4 歴史
4.1 先史時代・伝説時代
4.2 古代・中世
4.3 近代
4.4 現代
5 政治
5.1 近況
5.2 大統領・首相
5.3 制憲議会
5.4 行政機構
5.5 外交
6 軍事
7 経済
7.1 概説
7.2 データ
7.2.1 国内総生産 (GDP)
7.2.2 労働力
7.2.3 家計
7.2.4 国家予算
7.2.5 鉱工業
7.2.6 エネルギー
7.2.7 輸出入
7.2.8 通貨
8 教育
8.1 識字率
9 文化
9.1 暦法
9.2 祝祭日
9.3 世界遺産
9.4 ネパールと日本の文化交流
9.5 ネパールの食文化
10 関連項目
11 註
12 外部リンク
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目次 [非表示]
[編集] 国名
日本語表記:ネパール連邦民主共和国。[1]
公式の英語表記:Federal Democratic Republic of Nepal、略称:Republic of Nepal[2]
正式名称はネパール語のデバナガリ(デーヴァナーガリー)文字で????? ???????????? ???????? ?????、ラテン文字転写表記はsa?gh?ya lokt?ntrik ga?atantra nep?l 。略称???????? ?????、ラテン文字転写表記はga?atantra nep?l 。 通称?????、ラテン文字転写表記はNep?l 。
[編集] 国民
ネパール政府は1958年に中央統計局(Central Bureau of Statistics)を設け、10年に一度国勢調査を行うほか、国民所得統計、農業センサスなども行っている。また、サンプル調査により、毎年人口推計を出している。
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[編集] 人口関連
人口
29,519,114人 (2008年推計)
人口密度
209.65人/km2
年齢別人口構成
0-14歳: 38%
15-64歳: 58.2%
65歳以上: 3.8% (2008年推計)
平均年齢
全体: 20.7歳
男性: 20.5歳
女性: 20.8歳 (2008年推計)
人口増加率
2.095% (2008年推計)
出生率
人口千人あたり29.92人 (2008年推計)
死亡率
人口千人あたり8.97人 (2008年推計)
乳児死亡率
新生児千人あたり62人
誕生時の平均余命
60.94年
[編集] 民族・言語・宗教
民族構成
チェトリ 15.5%[3], 丘陵ブラーマン 12.5%[4], マガール族 7%, タルー族 6.6%, タマン族 5.5%,ネワール族 5.4%,イスラム教徒 4.2%,カミ 3.9%[5], ヤーダブ[6] 3.9%, その他 32.7%, 不明 2.8% (2001年国勢調査)
チェトリ、丘陵ブラーマン、カミなどのカーストは共通の民族で、総称してパルバテ・ヒンドゥーと名づけられているが、この名称はネパール国内ではあまり用いられていない。インド・イラン語派のネパール語を母語とし、国民の約半数を占める最大で支配的な民族である。
詳細はネパールの民族の一覧を見よ。
宗教
ヒンドゥー教徒 80.6%, 仏教徒 10.7%, イスラム教徒 4.2%, キラント教徒 3.6%, その他 0.9% (2001年国勢調査) なお、ヒンドゥー教は国教ではなくなった。
言語
公用語はネパール語。
ネパール語 47.8%, マイティリ語 12.1%, ボージュプリー語 7.4%, タルー語 5.8%, タマン語 5.1%, ネワール語 3.6%, マガール語 3.3%, アワディー語 2.4%, その他 10%, 不明 2.5% (2001年国勢調査)
ただし、政府や企業では多くの人が英語を用いている。
難民(出身国)
10万7803人 (ブータン); 2万0153人 (チベット・中国)
国内で家を失った人々
5万0000人-7万0000人 (毛沢東派の「人民戦争」による。2006年終結。) (2007年)
データはすべてCIA World Factbook-Nepalより
武蔵野タワーズ
[編集] 地理
[編集] 概要
ネパール地図
サガルマタ(エベレスト)北を中華人民共和国のチベット自治区に、西をインドのウッタラーカンド州に、南をウッタル・プラデーシュ州とビハール州に、東をシッキム州と西ベンガル州に接する。内陸国である。
国境の長さは合計2926km、うち中国国境1236km、インド国境1690km。
中国国境地帯にはサガルマタ(英国呼称エベレスト)を始めとする8000m級の高峰を含むヒマラヤ山脈が存在する。そのため高山気候となっている。一方、インドとの国境地帯は「タライ」「テライ」または「マデス」といわれる平原地帯で、肥沃である。その中間には丘陵地帯が広がる。最高所はエベレストで標高8850メートル。最低所は標高70メートルである。
面積は140,800km2。本州を除いた日本(北海道+九州+四国)にほぼ等しい。 データはすべてCIA World Factbook-Nepalより
湘南 不動産
[編集] 行政区画
ネパールの行政区画を参照
5つの開発地域(????? ???????、英語ではdevelopment region 開発地区と訳す場合あり)の下に、14の県(?????、英語ではzone)、さらにその下に75の郡(??????、英語ではdistrict)がおかれている。郡はれっきとした地方行政組織であり、中心都市には郡庁がおかれている。
[編集] ネパールの主な都市
ネパールの都市の一覧を参照
順位 都市名 1991年国勢調査 2001年国勢調査 2005年推計 郡
1 カトマンズ 421.258 671.846 790.612 カトマンズ
2 ポカラ 95.288 156.312 186.410 カスキ
3 ラリトプル (パタン) 115.865 162.991 183.316 ラリトプル
4 ビラートナガル 129.388 166.674 168.331 モラン
5 ビルガンジ 69.005 112.484 133.244 パルサ
6 ダーラン 66.457 95.332 128.605 スンサリ
7 バラトプル 54.670 89.323 117.162 チトワン
8 マヘンドラナガール 62.050 80.839 99.124 カンチャンプール
9 ブトワル 44.272 75.384 91.737 ルパンデヒ
10 ヘトウラ 53.836 68.482 84.800 マクワンプール
逗子 不動産
[編集] マデシ問題
マデシとは、タライともいわれるインド国境地帯に東西に細長く広がる肥沃な平原地帯(マデス)に住む人々のことである。現在の行政区画にはない。この細長い地域は文化的に北インドの影響が強く、丘陵地帯に住むネパール人の主流派パルバテ・ヒンドゥーから差別を受けてきた。このため、近年、「マデシ人権フォーラム」などの団体が中心になって、マデシ自治区を設け、高度な自治を実現するように、バンダ(ゼネスト)・チャッカジャム(交通妨害)などの激しい抗議活動を行ってきた。2008年の制憲議会選挙ではマデシ系のいくつかの政党が目覚しい議席数を獲得している。
2008年の初代大統領、副大統領選挙では、マデシ人権フォーラムがキャスティング・ボートを握り、副大統領はフォーラムから、大統領はマデシ出身のネパール会議派から選出された。
副大統領のパラマーナンダ・ジャーは就任式でマデシの共通言語としてヒンディー語(インドの言語)で宣誓を行い、マデシ以外のネパール人の怒りをかった。学生デモではジャーの人形を燃やしたり、「ジャーはインドのエージェント」というスローガンが現れたりした。ついにはジャーの自宅に爆弾が投げ込まれるテロ行為にまでエスカレートした。
今後、マデシ問題は不安定な政局と絡んで複雑化しそうな情勢である。
[編集] 歴史
[編集] 先史時代・伝説時代
ネパールの中心、カトマンズ盆地には旧石器時代から人が住んでいたことが明らかになっている。ドゥマカールの遺跡で発見された木具を放射性同位元素で測定した結果、紀元前2万7400年ごろのものと推定された。また、タライなど旧インド文化圏の各地でも旧石器時代の遺物が発見されている。[7]
伝説では、カトマンズ盆地は太古の昔湖だった。スワヤンブー寺院を参詣しに来たマンジュシュリ(文殊菩薩)が湖を囲む山を剣で切り開き、湖水を流しだし人が住めるようにしたという。[8]
また「ネ」(ne)という名の牟尼(聖者)が、最初にこの地を「統治」(pal)したので、「ネパール」(nepal)の名が付けられたという伝説もある。[9]その他、ネパールの起源に関する伝説は数多く存在する。
ネパールの古い歴史については「バンシャバリ」といわれる王朝王統譜が5種類伝えられ、「ゴーパーラ王朝」「マヒシャパーラー王朝」「キラータ王朝」があったとされるが、信憑性は低い。[10]
[編集] 古代・中世
紀元前6世紀 - 現在ネパール領(インド領説あり)のカピラヴァストゥ共和国の統治者の子釈尊は現在の南ネパールのルンビニに生まれ、北インドに教えを広めた。これらの地域は当時はインド文化圏に含まれていた。
紀元前3世紀 - インドのアショーカ王がブッダ生誕の地である南ネパールに巡礼を行い、仏塔を建立した。
4世紀 - インド・アーリヤ語派の王族によるネパーラー王国リッチャヴィ王朝が成立した。チベットと文化的、経済的、政治的の密接な交流があり、宗教・商業上の中心地として繁栄した。
9世紀 - デーヴァ朝が興る。
13世紀〜 - マッラ朝が統治した。ネワール文化が栄える。
1450年ごろ - マッラ朝、バクタプルからカトマンズ王国独立。
1619年までにマッラ朝、パタン王国、カトマンズ王国から独立、三王国並立時代となる。
[11]
[編集] 近代
1769年 - 第10代ゴルカ王、プリトゥビ・ナラヤンがネパールを統一し、シャハ王朝を作る。
1814年 - 1816年 ネパール・イギリス戦争(グルカ戦争)
イギリス東インド会社との戦争の結果、善戦したが敗北。スゴウリ講和条約により、西はマハカリ河以西、東はメチ河以東、および全タライ地方を放棄する代わりに、イギリスから毎年20万ルピーの支払いを受けることになった。(ただし、講和条約締結の9ヶ月後にはイギリスは20万ルピーの支払いをやめて、タライの大部分をネパールに返還し、ほぼ現在の国境ラインに落ち着いた)このほか条約にネパール兵がイギリス軍傭兵に志願できるという条項を加えた。なおイギリスはネパールのことをグルカ(Gurkha=ゴルカ)と呼んでいたので、ネパール人傭兵はグルカ兵(ゴルカ兵)と呼ばれるようになった。これが現在まで続き、ネパールは英印両国に毎年グルカ兵を提供している。
1846年 - 宮廷内の虐殺事件を機にジャンガ・バハドゥール・ラナが宰相となる。以後、宰相はラナ家の世襲となり、1951年まで シャハ王家は傀儡となる。
1854年 - ジャンガ・バハドゥール、近代的な大法典ムルキー・アインを公布。
1947年 - ネパール国民会議派(現在のネパール会議派の前身)結成。
1949年 - ネパール共産党結成。
[編集] 現代
1951年 - トリブバン国王亡命先のインドより帰国。ラナ家の支配終わる。立憲君主制を宣言。
1953年 - エドマンド・ヒラリー、テンジン・ノルゲイ、エベレスト初登頂。
1955年 - マヘンドラ国王即位。
1956年 - 日本国との外交関係を樹立。
1959年 - 初の総選挙。ネパール会議派・B.P.コイララが政権をとる。封建的諸制度の改革を急速に進め、国王との間に溝ができる。
1960年 - マヘンドラ国王がクーデターにより議会を解散。政治活動を禁止。全閣僚を逮捕。
1962年 - 新憲法制定。政党の禁止、国王に有利な複雑な間接民主主義「パンチャヤット制」、ヒンドゥー教の実質国教化など。
1972年 - ビレンドラ国王即位。
1980年 - パンチャヤット制の是非を問う国民投票。僅差で存続決まる。
1990年
2月18日、パンチャヤット制廃止、複数政党制復活を求めて民主化運動(ジャナ・アンドラン)起こる。ネパール会議派と共産系7政党が共闘。
4月8日ビレンドラ国王、政党党首とテレビ出演。複数政党制導入を約束。
4月16日国王、パンチャヤット制の廃止を宣言。
4月19日国王、ネパール会議派のクリシュナ・プラサド・バッタライを首相に指名。
11月9日、国民主権を謳った新憲法制定(1990年憲法)。
1991年
5月12日複数政党制による30年ぶりの総選挙。ネパール会議派が勝ち、ギリジャ・プラサド・コイララが首相に。
1996年 - ネパール共産党毛沢東主義派(マオイスト)が王制を打破すべく、「人民戦争」を開始。(ネパール内戦)
2001年1月マオイスト、正式に人民解放軍を創設。
2001年 - ネパール王族殺害事件。
ギャネンドラ国王が王位につく。政変により議会停止。
以後、国王・議会・マオイストによる混乱状態。
実質的には武力のない議会に力はなく国軍を掌握する国王派とマオイストによる内戦が続き、政府支配地域とマオイスト支配地域に分かれる。
アメリカが国王を支援。武器を供給するなどしたが、武装した農民がマオイストに合流するなど混乱に拍車をかける結果に。
2002年10月4日、ギャネンドラ国王、クーデターにより、ネパール会議派のデウバ内閣を停止。国王親政。11日、王党派のチャンドを首相に任命。
2004年6月 - 国民の声に圧されて国王、再びデウバを首相に任命。
2005年
2月1日 - ギャネンドラ国王、再度の議会・内閣停止。絶対君主制を導入、非常事態宣言(実質上の戒厳令)。4月末日で解除。
12月 - 議会内の7党連合と議会外の毛沢東派が和解、共にギャネンドラ国王の独裁と闘うことで合意。
2006年
4月 - 7党連合、ゼネストを呼びかけ。民主化運動(ロクタントラ・アンドラン)が高まる。毛沢東派も抗議行動に参加。
4月24日 - 国王が「直接統治断念。国民への権力移譲。議会を復活」と発表し、政党側に首相推薦を要請。27日、コイララ政権が発足。
5月 - ネパール政府、毛派をテロ指定解除。
5月18日 - 議会が国歌変更と政教分離(ヒンドゥー教の国教廃止)を満場一致で決定。
11月21日 - 政府とマオイスト、無期限停戦を誓う「包括和平協定」に調印。2007年6月までに制憲議会選挙を実施することで合意。
2007年
1月15日 - 下院、暫定憲法発布。その後、下院は解散。
1月23日 - 国連安保理、国連ネパール支援団 (UNMIN) を設立する安保理決議第1740号を全会一致で採択。国軍と人民解放軍の停戦を監視。
2月 - ネパール南東部では暫定憲法に反対し地位向上を訴えるマデシ(インド系少数民族)の抗議行動が続き、地元警察との衝突により少なくとも21人が死亡。
12月27日 - 暫定議会、ネパールの政体が連邦民主共和制になる旨の暫定憲法改正案を承認。
2008年
4月10日 - 制憲議会選挙の投票が実施され、毛沢東派が第1党となったが過半数は獲得できず。
5月28日 - ネパール制憲議会が招集され、新たな政体を連邦民主共和制と宣言して正式に240年間続いた王制に終止符を打つ。ギャネンドラ国王退位。
6月11日 - ギャネンドラ前国王、王宮を退去。
7月19日 - 初の大統領選挙。副大統領にパラマーナンダ・ジャー(マデシ人権フォーラム)当選。大統領はいずれの候補も過半数に達せず。
7月21日 - 決選投票の結果ネパールの初代大統領にラムバラン・ヤーダブ(ネパール会議派)が選出される。
7月23日 - ヤーダブ大統領、正式に就任。ジャー副大統領、就任式にインドの言語・ヒンディー語で宣誓し、マデシ以外のネパール人から激しい抗議行動を受けた。
7月24日 - ネパール外務省、各国外交団に国家の正式名称を"Federal Democratic Republic of Nepal",略称を“Republic of Nepal"とするよう要請。
7月28日 - 日本国政府、正式にネパールの国号を「ネパール連邦民主共和国」に改める。
7月29日 - ジャー副大統領、ヒンディー語で宣誓し、混乱を引き起こしたことを陳謝。
8月15日 - 首相に毛沢東派・プラチャンダ議長選出される。
8月31日 - プラチャンダ内閣、全閣僚が就任。毛派のほか統一共産党、マデシ人権フォーラムほかの連立内閣。
[12]
[編集] 政治
ネパールの国王、 ネパールの政党、および ネパールの首相の一覧を参照
[編集] 近況
カトマンズ、民主の壁ネパールは2008年現在、暫定憲法のもとで暫定政府が設けられている状況である。2008年5月、制憲議会が設けられ、本格的な憲法の制定を目指している。
2006年の民主化運動(ロクタントラ・アンドラン)の結果、従来の事実上の絶対君主制から暫定的に象徴君主制へ移行。国王は国家元首としての地位を失い、首相がその職務を代行した。国号は「ネパール王国」から「ネパール国」に変更され、在外公館の表記からも「王国」が削除された。王室を讃える国歌を廃止し、王室と結びついたヒンドゥー教は国教としての地位を失った。国王は国軍最高指揮権を失い、政府も「国王陛下の政府」から「ネパール政府」に変更された。
これを受け、当時の与党・ネパール会議派は他の諸派から提案されていた王制廃止に賛成する事を表明した。更に、暫定憲法にネパールで最大の政治勢力であるネパール共産党毛沢東主義派(マオイスト)が暫定政府復帰の条件としていた「王制廃止」と「連邦民主共和制」が盛り込まれることが決まり、ネパールの国家形態が王制から共和制へ移行することが事実上固まった。
2008年4月10日に投票された制憲議会選挙(小選挙区240、比例代表335、内閣指名26)でプラチャンダ議長率いるネパール共産党毛沢東主義派が229議席(小選挙区120、比例代表100、内閣指名9)を獲得して第1党となり、ネパール会議派が115議席(小選挙区37、比例代表73、内閣指名5)、統一共産党が108(小選挙区33、比例代表70、内閣指名5)と王政廃止派の政党が大多数を占め、王政支持派政党は唯一国民民主党ネパール(4議席)に留まった。同年5月28日に招集された制憲議会の初会合では、正式に王制を廃止し連邦民主共和制への移行を宣言した(賛成560票、反対4票)。
また、マオイストの「党兵」である「人民解放軍」を今後どうするのかは、困難な課題となっている。